妻の座といえば、明治民法で重要なのがこの条項だ。「配偶者アル者ハ重ネテ婚姻ヲ為スコトヲ得ス」(第七六六条)日本において、一夫一婦制が確立したのは、この条文によってである。日本の富裕層、エリート層は、事実上の一夫多妻(一夫一婦多妾)で、家督を継がせる男子を確保するとの名目で、男は「妻」のほかに複数の「妾」をもつのが当たり前だった(「蓄妾制」と呼ばれる)。一夫一婦制はキリスト教の習慣だから、民法がこれを採用しようとしたときも「麗しい日本の伝統を壊す気か!」という反対論が巻き起こったほどだった。政界も財界も学界も文壇も、かつてはこういうスケベジジイの巣窟だったのである。困った政府は、後に「内縁」を認める形で、スケベジジイを懐柔する策に出たのだが、ともあれ民法で一夫一婦制を定めた以上、政府にはそれを徹底させる責務があった。ここでもう一度、プリンス嘉仁と九条節子のロイヤルウエディングを思い出してほしい。二人手に手をとり、同じ馬車でパレードをしたあの結婚式を。もはや、おわかりであろう。イベント化された喜仁と節子の婚礼は、一夫一婦制のデモンストレーションという側面があったと考えられるのだ。実際、大正天皇夫妻は、一生を一夫一婦で通したはじめての天皇でもあった。四人の皇子にも恵まれた結婚生活は、一夫一婦制の広告塔にはぴったりだったといえるだろう。一見、男女同権に見える一夫一婦制も、ひと皮むけば、「夫ハ妻ノ財産ヲ管理ス」(第八〇一条)。嫁の地位は異常に低く、同権でも平等でも全然なかったのですけれどもね。
日本ではさらにご丁寧に、前厄と後厄を加えて前後三ヵ年の幅が加わり、それがくらしの中にすっかり定着している。語呂合わせといいながら「死」のイメージが恐れをいだかせている例である。三十三の方は「散々」、十九は「重苦」といった語呂合わせがある。ところで厄除け、厄払いの方法はたくさんあるが、霊験灼かな神仏参りというのが適当とされている。厄払いをすると、不運が幸運に転じるという陰陽和合の精神が説かれているのも特徴である。そこでは盛大な祝宴が催され、その折に贈答も行われた。品物の贈答によって、襲いかかってくる災厄が祓われてしまうというのも迷信であるが、不安な状況をプラスに転化させる可能性も秘めており、厄年が幸運にイレカワルというのも大いにあり得たのである。
最近よく聞くオフィスの困った話。「隣の席の人から、「コピーとっといて」とメールが来てびっくり。口で言えばいいと思うんですけど……」もっとひどい話では、目の前に座っている同僚が何か長時間パソコンに向かっていると思ったら、その人が帰ると同時に自分への批判メールが送られてきた、というケースまで耳にした。メールは相手の都合に合わせて読んでもらえる気軽さや、双方に同じ文面が残る便利さがあるが、体温がなく機械的なツールだ。口で伝える手間が省ける分、無味乾燥で感情が伝わりにくい。ビジネスの基本は「対面」。メールはその代わりの手段で、「本来はお目にかかってお話しすべきところ、手間を省いて申し訳ありません」という気持ちはどこかに必要だ。ビジネス文書をペーパーレス化するのとは訳が違う。最低限の会話はメールすべきではない。またメールは「送った」ことで連絡完了ではない。自分がメールだけに通信を頼っていると忘れがちだが、相手が見ていないということも考えられる。早めに連絡が欲しいなら、「メールをいたしましたが、念のためにご連絡しました」と電話で確かめること。また声ならトーンで喜怒哀楽が伝わるが、文面では誤解が生まれやすい。「どういう意味でしょうか」という同じ文言を、「理解力がなくてすみません」という表情で頭をかきながら伝えられるのと、メールで送られるのとでは印象は大違い。しかし、ビジネスで顔文字はNG。メールでは自分の感情より体温が何度も下がって読まれると思って、ていねいに柔らかく伝えるように心がけよう。